太郎さんとイヌワシ

このお話は、長野県に住む本会会員が、県内のイヌワシの分布調査をはじめて間もないころに、ある村人本人(仮にこの人を“太郎さん”と呼びましょう)から聞いた話です。多少脚色していますが、本当にあったお話で構成しています。

長野県のある村の裏山には、昔から人知れず一番(ひとつがい)のイヌワシが棲(す)んでいました。

もう、春だというのに、この村の周りにはまだ雪がたくさん残っていました。 太郎さんはいつものように裏山へ薪(たきぎ)を集めに出かけました。 太郎さんは薪を一生懸命集め、一息入れようと、ふと空を見上げると、 大きな黒い鳥が脚(あし)に何かをぶら下げて輪を描いています。 その大きな鳥は、村の上をよく飛んでいるトンビのような鳥でしたが、 トンビよりもずっと大きく、太郎さんは「これこそワシだ」と思いました。

よく見るとワシが脚にぶら下げているのは、大きな野ウサギでした。 太郎さんが“ぽかん”と見ていると、ワシはその大きな野ウサギを裏山のある場所に運んで行きました。 太郎さんは薪を集めるのも忘れ、そのワシが消えた付近に、急いで跳んで行きました。 太郎さんにはワシが消えた辺りに、心当たりがあったのです。 そこは、大きな岩壁が聳(そび)え立ち、その近くでは、夏には山菜が、秋にはキノコが採れる場所です。

太郎さんが、ワシの消えた、心当たりのある場所に近付くと、そこにあるはずの岩壁がありません。 岩壁の変わりに、真っ白い雪の山が岩壁のように聳え立っています。 何と岩壁の上から落ちてきた雪が、岩壁の前にどっさりと積もり、岩壁を半分以上隠していたのです。 太郎さんはその雪の山を登ってみました。積もった雪の山の上の方にたどり着いてみると、 雪の山と岩壁の間には、落ちたら登っては来れないような亀裂(きれつ)があります。 しかし、それにもまして太郎さんの興味を引いたのは、太郎さんの目線の下の岩壁の、ぽっかりと空いた穴の中に、 厚く木の枝を敷きつめた大きな大きな巣があり、そこに少し黒い羽根を混ぜた白いヒナ鳥がいたことでした。

ヒナ鳥はつぶらな黒い瞳をしていましたが、その嘴(くちばし)は鉤(かぎ)のように曲がり、 その脚は頑丈そうで、とても太く、鋭い爪を持っています。 これこそ、この村の裏山に昔から棲んでいるイヌワシのヒナ鳥でした。 ちょうど親ワシは留守でしたが、太郎さんは親ワシに襲(おそ)われてはかなわないと思い、帰ろうとしました。 しかし、冷静になってよく見ると、ヒナ鳥の周りには、先程、親ワシが運んで来たであろう野ウサギと、 それよりも前に運んで来たらしい野ウサギが置いてあります。

太郎さんは親ワシに襲われるかも知れないと思うよりも、この野ウサギを持って帰ろうという気持ちの方が勝り、 それを実行に移しました。人間というものは現金なもので、先ほどまで恐いと思っていた岩壁と雪の山の間の亀裂さえも、 なんなく乗り越え、太郎さんは念願の野ウサギの肉を手に入れたのです。 でも、巣の中のすべての野ウサギを取ったのではなく、野ウサギ1羽だけで、後はヒナ鳥に残してあげました。

この晩、太郎さんの家では、美味しいウサギ汁にありついたのです。 

この後、太郎さんは、ウサギ汁が食べたくなった年には、このイヌワシの巣を何度か訪れたそうです。

このお話、皆さんは信じられますか?

ところで、イヌワシが繁殖や巣を放棄する理由の一つに、人の巣への接近があります。 このイヌワシはなぜ巣を放棄しなかったのでしょうか?

それはきっと、太郎さんが毎日のように巣へ近付くことがなかったことと、ヒナ鳥に手を出さなかったこと、 また、ほめられることではありませんが、餌となる野ウサギを取って来る時にも、全部取らなかったことなど、 太郎さんの小さな思いやりがあったことも忘れてはいけません。

昨今、野鳥の写真を撮ろうと、不必要に、しかも頻繁に巣に近付き、繁殖をさまたげる人がいると聞きます。 ほんの少しの思いやりを持つことで野鳥達は安心して繁殖を続けるのです。 皆さんも思いやりを持って接してあげてください。

最後に、このお話の主人公である村の裏山のイヌワシの番は、 おそらく何世代か変わったかもしれませんが、 今もこの裏山の空を舞い、同じ巣を使い繁殖をしています。