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鷲の岩屋

このお話は滋賀県の湖北地方に伝わる昔話です。滋賀県余呉町教育委員会のご厚意により、「余呉の昔話」から転載させていただきました。

むかし、湖北余呉の庄に化鳥(けちょう)住みつき、北国往還(おうかん)の人びとや牛馬を悩ますとの訴えが、都の役所にとどけられました。

時の天皇はこのことを非常に心配され、役人たちを集めこの相談の結果、当時豪勇をもって知られる隠岐広有(おきひろあり)に、これを退治するよう命ぜられました。

ところが、このとき、源氏の血を受けた西山三郎、京都にあってこれを聞き、 「源氏の一門のなかに勇者はいないのか。」と、嘆いて、三郎自ら供の者八人をひきつれ、ひそかに京を出て余呉の地にやってきました。

椿井(椿坂)を経て深山幽谷に入ることしばしで、樵(きこり)の住む数戸の家のあるところにたどりつきました。 樵の家に入り、しばらく休んでいると、にわかに黒雲あらわれ、雷鳴のような鳴き声が聞えてきました。 とび出て空を仰ぐと、二メートルにも及ぶかと思われる翼をもった大鷲三羽が、黒雲の下を旋回しているのが見えました。

三郎はさっそく持参した三人張り、一五尋(ひろ)の豪弓(ごうきゅう)に矢をつがえ、力一ぱい引きしぼると、鷲にむかって、はっしとばかりに放ちました。 三郎が、つぎつぎと放つ矢は、いずれもみごとに鷲に命中し、鷲は絹を裂くよな叫びをあげ、谷間に落ちていきました。 このとき、はじめて鷲を見た、樵の家のあるところを鷲見というようになりました。

また雄鷲(おすわし)の落ちた谷をオンドリ谷、雌鷲(めすわし)の落ちた谷をメンドリ谷、小鷲の落ちた谷を小鷲見、尾羽の飛んだところ尾放(おばなし・尾羽梨)、 皮を剥いだところを剥皮(はりかわ・針川)と呼ぶようになり、今も地名としてそのまま残っています。

また鷲見から二丁ほど南に出た山の中には、当時鷲が住んでいたといわれる洞窟が、鷲の岩屋といわれ残っています。

西山三郎の怪挙が都に伝わると、勅命を受けた広有をだしぬき、勝手なことをしたというので、宮中の怒りにふれ、 「三郎の都に帰ることは、相成らぬ」と、いうきびしいおふれが出ました。

都に帰ることができなくなった三郎は、湖北の伊香大貳(だいに)の家に身を寄せることになりました。 三郎はここで、大貳の娘を妻として、八人の供の者と共にこの地に住みつきましたが、この地が三郎の生まれた粟生の西山の地形によく似ているので、この地を西山と名づけました。 現在の木之本町西山がこの地なのです。

その後、西山三郎が死ぬと、怪鳥鷲の霊魂が再びあらわれ、黒雲にのりあの雷鳴のような叫び声をあげ、人びとを悩ませました。 ひとびとはおそれおののき、老人は失心し、幼児ははげしいひきつけをおこす有様でした。西山家では驚き、神に祈っておうかがいすると、 「鷲の岩屋に岩屋大明神として不動明王を勧請(かんじょう)し、悪霊を鎮め、万民を安んぜよ。」 とのお告げがあったので、早速岩屋に不動明王をおまつりしたところ、怪鳥の霊魂も消え、静かな山村にもどることになりました。

西山家と、鷲見の人たちはそれ以来、毎年八月二十八日を岩屋大明神の祭礼の日として、神官をまねき祭礼を行っているのです。

この岩屋は、今も女人禁制で女の人の洞窟内に入ることを禁じています。また洞窟に入るときは、はだしにならねばならないなどのきまりを村の人は守っています。

入口は二つに分かれ、大きい方には不動明王をまつる祠があり、他の一つは下にのび、中に入っていくと、水をたたえた池にたどりつきます。

滋賀県余呉町教育委員会編「余呉の民話」より転載